新しい文学に向けての断章四 孤絶

 共同体への意志が叫ばれる。それに抗するため連帯が説かれる。一人の時間は、何処にも告げられていない。

 如何にあがいても、孤絶して生きることは出来ない。否応なく侵食されて生きる。関係を断とうと願っても、断たれることはない。だからこそ、孤絶したものを守らねばならない。一人の時間。一人だけれど、私であって、私ではない誰か。かたくなに侵食を拒絶し、わずかだが、透徹としたすがたをそこに立てる。
 共感は求めない。むしろ徹底して共感を退ける。共感が生じたら敗北だとさえ思う。異様な時間がひとり、歩いていく。そのような地が、文学の極北なのだ。


 なぜ一人の時間は説かれない。孤絶してゆくことは、社会から遊離することではない。遊離し得る社会など何処にもない。一人であろうとすることは、エゴイズムだと時に言われる。それは違う。大きな隔たりがそこにある。エゴイズムは他者への影響をつねに欲望している。他者への侵食を激しく求めている。共同性にせよ、連帯性にせよ、同じことだ。一人であることを許さない。そうして他への侵食への欲に満ちている。一人の時間ではない。
 慄然とした孤絶、そこにこそ抜き差しならない政治性がある。少なからぬ文学者が、示してきたはずである。彼らが表現しようとした彼らの時間は、共有できない。しかしその存在を感ずる。感じさせることが価値をなしている。

雑記

 素朴に、外国文学を読む機会を得ている。

 私のものではない言語。日本語もおそらく、私のものではないが。しかしまた、見知らぬ言語でもやはり、書き手が言葉にかけた力は感ずる。そのような力を感じさせること、それをただ目指せばよい。同じ言語の内でしか感覚を共有し得ない、というのは正しくない。


                *


  People forget years and remember moments.

                   (Ann Beattie “Snow")

 人は年月を忘れ、瞬間を思い出す。

 静謐な回想の中で語られるこの言葉はひどく美的に響く。けれどまた、ある種の文学の主題の一つを簡潔に言い表している。記憶の中で蘇るのは、いつもただ断章なのだ。過去の時間は、今に向かって落ちてゆく流れの内には、ない。

新しい文学に向けての断章三 円環の時間

 何かの先に向かって押し流されてゆく時間の中で、まるで異質に、とどまる時間というものがある。静かに、そっと繰り返される、円環にも似た時間。変わってゆく外界の中で、変わらない生の形。その時間は、ただ一人のものであって、誰かと分かちあうものでは決してない。秘密の場所を明け渡すことなく、しかし流れる時間と折り合いをつけながら。朝目覚め、夜眠りについた。外界は流れていった。私は流れに身をゆだねている。一年、二年過ぎた。けれど朝目覚め、夜眠りにつく。その変わらない繰り返しの中にこそ息づく、実存のような瞬間。何かは果たされたか。いや、ひそやかさの内にすでに果たされている。

 おそらく犀星は探りあてている。かたくなにゆらがない一人ひとりの時間の形を。日々の形がまるで違って見える、そんな文学世界。


「百年経った」

「そうかも知れない」

雑記

構造において捉えなおそうとする欲動が強くなる。強くなりすぎる。言葉が言葉を呼び、音が音を呼ぶ、そんな遊びめいた動きが恋しい。
言葉の裏に意味はなく、言葉のおかしな運動だけがあり。





黄金のゆめは過ぎた
まなこは青く

   *

人かげを訪うて永く
雛のうた

   *

身が滅んで今朝は
全き夕べを知る









小さな越境をした。不思議なのはただ時間だ。

雑記

ある朝窓を開けると、金木犀の匂いがして、ほんとうに秋が来たのだと思った。

秋から冬に向かって、ある種の文学は充実してゆく。

夜がとぷりと深く長く。見えないものに感覚が研がれる。

真っ暗く、凛と透きとおった天。何かの鉱物に似ている。


季節を、大気を、気候を書くことに惹かれる。

ともすれば風土。ひとつの限界を与えるもの。

普遍への意志を好む。

けれど地球は一様ではなかった。人の条件もまた一様ではなく。

針のような三日月が沈む。

月面は一様だろうか。







一切の
不安らしき不安は去り
そこはかとなく残るもの
たちのぼるあかるくかすかな白い火
何ものか
言葉をあたえることはできず

それ自体が言葉のような
あかるく
あかるく

新しい文学に向けての断章 二 生成の現場・臨界の場にある言葉

 小説の文学史においては、身の置き所を与えられてない犀星だが、詩の文学史においては、近代詩、すなわち口語自由詩の最初の人として、重要な位置を占めている。このことは、彼の散文を問う際、もっと深刻に考えられてよい。

きょうもさみしくとんぼ釣り
ひげのある身がとんぼ釣り
このふるさとに
飛行機がとぶという
そのひるころのとんぼ釣り
とんぼ釣りつつものをおもえば
とんぼすういとのがれゆく



    (室生犀星「とんぼ釣り」)

 犀星の処女詩集は多大な影響力を与えた。犀星の詩によって、口語自由詩のスタイルというものが、了解されたと言う。犀星の詩の価値とは何だろう。口語。自然な言葉で、日常的な言葉で、詩が書ける。よく、そう述べられるが、犀星の詩がはらむ価値を言い尽くしてはいない。

 「とんぼ釣り」で、いちばん優れているのは「とんぼすういとのがれゆく」の箇所であるが、ここで何より鮮やかなのは「すうい」という擬態語である。実は犀星の散文においても、さかんに現われ目をひくのは、巧みな擬態語・擬音語表現と言える。そのほとんどが、ひらがなで書かれている。

 擬音語や擬態語、あるいはオノマトペ、といったものは、再考してみると、とても不思議なポジションにある。それは共同体のものである言語の中で、唯一、個々人の作家が生み出せる言葉と言ってよい。文学を書きたいと思う人は、つねに、言語表現にオリジナリティがあるのか、という問題に突き当たる。しかし、この擬態語といったものは、たしかに自分で生み出せる部分があり、その閉塞状況から抜け出している感がある。勿論、擬態語的な言葉が、個人のオリジナリティを完全に成就しているわけではない。完全にオリジナルな言葉は、もはや言語ではない。ひどく主観的な音(文字)の羅列になってしまう。オノマトペをただ主観的に駆使するだけでは、言語表現にならない。その言葉が共有され得るか、され得ないか、ぎりぎりのところにあるものが、最上の可能性をもつと言えよう。臨界の場にある言葉。

 犀星が擬態語を、ひらがなで書いていることに、彼の自覚を見て取ることができる。カタカナは異質性を際立たせ、どこか外的な音として響く。ひらがなは、既存の意味体系との連続性を志向している。しかし実際は犀星が生んだ言葉にほかならならず、完全につながりはしていない。犀星は、新しい言葉を参入させようとしていると言える。それが成功するか、しないか、その生成の勝負がつねにこころみられている。

 このような関心は、犀星だけではない。宮沢賢治草野心平などは、その部分をより押し進めたとも言える。優れた詩人は、共同体の言語との終わりのないたたかいに入っている。
 新しい文学を考えるとき、まず「日本語」の前に躓く。百年近く経とうとしているが、犀星の試みは古びているように思えない。

掠奪のために田にはいり
うるうるうるうると飛び
雲と雨とのひかりのなかを
すばやく花巻大三叉路の
百の碍子にもどる雀


    (宮沢賢治「グランド電柱」)

あるシンポジウムでの発言

 先月、ある市民向けのシンポジウムで話す機会があった。
 純粋に芸術としての「文学」に向かう姿勢とは違う。しかし、根底に流れる立場は基本的に変わらない。
 大学で、「文学」とはある意味逆の志向を持つ「研究」を平行して行っている。時折矛盾を抱える。けれど、大学外の世界の人に向けて、生の言葉で語るのは、語ろうと試みるのは、「文学」的な営為だと気がついた。
 発表原稿とは何だろう? 書かれたものだが、話すことをつねに意識している。実際に、声を出しながら、文章を書く。しかし、実際の「語り」はその日その場所の一度きりで、いま手元に残るのは、やはり書かれた文章である。それでも、話すことが意識された文章は、ただ書かれたものとは、異質な差異がある。

 発表原稿の前置きだけ、ここに載せてみたい。自分の立場を、多くの人に、直接聞いてもらえるのは、幸せなことと思う。聞いてもらうに値するか否か、未だ自信はもてないが。






 今回のシンポジウムのテーマは「知の暴力」ということで、植民地や戦争を考える際、「知」・あるいは思想といった問題から見ていきたい、という企画だとお聞きしました。先の報告者の方は、植民地という問題をメインにお話しされたので、私は、及ばずながら戦争という問題をメインに述べてみたいと思います。

 戦争という事件は、近代以降の日本に限っても、多数あるわけですが、色々な意味で、やはり最大の問題として考えるべきなのは、アジア太平洋戦争と言えるでしょう。私は歴史学を専攻しているわけですが、戦後の歴史学の課題とは、何より、激しい惨禍をもたらした、あの戦争がなぜ起こったか、という点を明らかにすることに目が向けられていたと言えます。戦後も60年を迎え、そのような関心から歴史を問うのは古びている、という意見はよく聞かれますが、私は、その見方は未だ全く色あせていないと考えています。あの戦争について、明らかにされていない問題は、非常に沢山あるからです。今回の企画であげられたように、戦争と思想といった問題もそのひとつと言えるでしょう。思想の流れ、知的なものが、いかなる形であの戦争にかかわっていたか、それは非常に重要な問いです。

 アジア太平洋戦争と思想、と言いますと、非常に極端な右翼的な思想、すなわち国民を戦争に動員するため、政府や軍部が唱えた皇国イデオロギーを、第一に思い浮かべるかも知れません。それはそれとして大変重要な問題ですが、しかし、今回私が問題としたいのは、そのような体制側のイデオロギーとは一線を引いたところで展開された知識人、文化人の思想についてです。戦中、文学者をはじめとした大多数の知識人が、反戦的立場をとらず、戦争をほぼ全面的に支持したことはよく知られています。体制による激しい弾圧があったことは事実ですが、しかしながら他方で、知識人が当時の思想的な課題を解決するために、自ら戦争を支持する思想を生み出してしまったこともまた事実です。彼らは体制のイデオロギーに迎合しようとしたわけではなく、純粋に理論を突き詰めていった結果、戦争を支持するに至ったのです。そのような当時の知識人の思想の流れは、非常に重要な問題と言えます。

 当時、哲学的な課題に真摯に取り組むことがなぜ、戦争支持の思想になったのでしょうか。この問題は、知識人が明確に戦争支持を表明する1940年代以降、太平洋戦争開始以降を見るだけではわかりません。その前夜、1920年代末から30年代の段階を見ることによって、はじめて理解できるものです。

 30年代の議論と言うのは、文芸論や芸術論など、直接的には戦争と何の関与もない議論が沢山あります。しかしそのような議論の内に、40年代以降、戦争へ向かう思想がひそんでいるのです。当時の知識人にとって、その思想がやがて、激しい惨禍をもたらす戦争を支持する意味をもつとは思いも寄らなかったでしょう。戦中になっても、自らは純粋に理論を追究しており、体制のイデオロギーとは全く異なっている、という意識さえあったかも知れません。そのような知識人の無自覚さは、直ちに批判できません。知識人の考え方は、当時の思想のあり方、当時の知的枠組み、すなわち考え方の枠組みのなかで自然な流れだったからです。我々が今批判できるのは、そのような枠組みから脱しているからだと言えます。我々も、無自覚のうちに、現在の枠組みに捉えられているとも言えるでしょう。

 渦中にいる人間は、自分たちの考え方のもつ暴力性に、なかなか気づくことができません。暴力を振るう側も、振るわれる側さえも、その暴力性に無自覚になってしまいます。そのようなものであるがゆえ、一般に思い浮かべる暴力、目に見える暴力よりも、深いところで強力に作用するのです。このシンポジウムのテーマである、「知の暴力」とはそのようなものであると、私は考えます。