女性的な知

 時に抑圧は、身体性を礼賛することから始まる。日本において女性性の可能性が問われる時、それが一度として身体性と無縁に説かれたことはない。男女の間に身体的な差異はあり、終局的にはその差異が大きな可能性を生む。しかし少なくとも日本においては、身体性よりも知性を、女性的な知というものを第一に考えねばならない。

 「かげろうの日記遺文」は「知」を持たぬ野生的な女(冴野)の可能性を問うたものとよく評価される。しかし犀星が同じ位、いやそれ以上に重きをおいているのは、「書く」女、女性的な知で男性の論理に挑む紫苑の上である。

 男性的な知の追従でも陰画ではなく、そして幻想された女の身体性からも一度完全に切り離された女性的な知、それを日本のフェミニズムは求めねばならない。

 しなやかにかわすことよりも、ほんとうに向き合うことを。盲目的に戦うことよりも、ゆるぎない論理をもて戦うことを。それはつねに男女両者にとっての幸福の問題である。