新しい文学に向けての断章四 孤絶

 共同体への意志が叫ばれる。それに抗するため連帯が説かれる。一人の時間は、何処にも告げられていない。

 如何にあがいても、孤絶して生きることは出来ない。否応なく侵食されて生きる。関係を断とうと願っても、断たれることはない。だからこそ、孤絶したものを守らねばならない。一人の時間。一人だけれど、私であって、私ではない誰か。かたくなに侵食を拒絶し、わずかだが、透徹としたすがたをそこに立てる。
 共感は求めない。むしろ徹底して共感を退ける。共感が生じたら敗北だとさえ思う。異様な時間がひとり、歩いていく。そのような地が、文学の極北なのだ。


 なぜ一人の時間は説かれない。孤絶してゆくことは、社会から遊離することではない。遊離し得る社会など何処にもない。一人であろうとすることは、エゴイズムだと時に言われる。それは違う。大きな隔たりがそこにある。エゴイズムは他者への影響をつねに欲望している。他者への侵食を激しく求めている。共同性にせよ、連帯性にせよ、同じことだ。一人であることを許さない。そうして他への侵食への欲に満ちている。一人の時間ではない。
 慄然とした孤絶、そこにこそ抜き差しならない政治性がある。少なからぬ文学者が、示してきたはずである。彼らが表現しようとした彼らの時間は、共有できない。しかしその存在を感ずる。感じさせることが価値をなしている。