あるシンポジウムでの発言

 先月、ある市民向けのシンポジウムで話す機会があった。
 純粋に芸術としての「文学」に向かう姿勢とは違う。しかし、根底に流れる立場は基本的に変わらない。
 大学で、「文学」とはある意味逆の志向を持つ「研究」を平行して行っている。時折矛盾を抱える。けれど、大学外の世界の人に向けて、生の言葉で語るのは、語ろうと試みるのは、「文学」的な営為だと気がついた。
 発表原稿とは何だろう? 書かれたものだが、話すことをつねに意識している。実際に、声を出しながら、文章を書く。しかし、実際の「語り」はその日その場所の一度きりで、いま手元に残るのは、やはり書かれた文章である。それでも、話すことが意識された文章は、ただ書かれたものとは、異質な差異がある。

 発表原稿の前置きだけ、ここに載せてみたい。自分の立場を、多くの人に、直接聞いてもらえるのは、幸せなことと思う。聞いてもらうに値するか否か、未だ自信はもてないが。






 今回のシンポジウムのテーマは「知の暴力」ということで、植民地や戦争を考える際、「知」・あるいは思想といった問題から見ていきたい、という企画だとお聞きしました。先の報告者の方は、植民地という問題をメインにお話しされたので、私は、及ばずながら戦争という問題をメインに述べてみたいと思います。

 戦争という事件は、近代以降の日本に限っても、多数あるわけですが、色々な意味で、やはり最大の問題として考えるべきなのは、アジア太平洋戦争と言えるでしょう。私は歴史学を専攻しているわけですが、戦後の歴史学の課題とは、何より、激しい惨禍をもたらした、あの戦争がなぜ起こったか、という点を明らかにすることに目が向けられていたと言えます。戦後も60年を迎え、そのような関心から歴史を問うのは古びている、という意見はよく聞かれますが、私は、その見方は未だ全く色あせていないと考えています。あの戦争について、明らかにされていない問題は、非常に沢山あるからです。今回の企画であげられたように、戦争と思想といった問題もそのひとつと言えるでしょう。思想の流れ、知的なものが、いかなる形であの戦争にかかわっていたか、それは非常に重要な問いです。

 アジア太平洋戦争と思想、と言いますと、非常に極端な右翼的な思想、すなわち国民を戦争に動員するため、政府や軍部が唱えた皇国イデオロギーを、第一に思い浮かべるかも知れません。それはそれとして大変重要な問題ですが、しかし、今回私が問題としたいのは、そのような体制側のイデオロギーとは一線を引いたところで展開された知識人、文化人の思想についてです。戦中、文学者をはじめとした大多数の知識人が、反戦的立場をとらず、戦争をほぼ全面的に支持したことはよく知られています。体制による激しい弾圧があったことは事実ですが、しかしながら他方で、知識人が当時の思想的な課題を解決するために、自ら戦争を支持する思想を生み出してしまったこともまた事実です。彼らは体制のイデオロギーに迎合しようとしたわけではなく、純粋に理論を突き詰めていった結果、戦争を支持するに至ったのです。そのような当時の知識人の思想の流れは、非常に重要な問題と言えます。

 当時、哲学的な課題に真摯に取り組むことがなぜ、戦争支持の思想になったのでしょうか。この問題は、知識人が明確に戦争支持を表明する1940年代以降、太平洋戦争開始以降を見るだけではわかりません。その前夜、1920年代末から30年代の段階を見ることによって、はじめて理解できるものです。

 30年代の議論と言うのは、文芸論や芸術論など、直接的には戦争と何の関与もない議論が沢山あります。しかしそのような議論の内に、40年代以降、戦争へ向かう思想がひそんでいるのです。当時の知識人にとって、その思想がやがて、激しい惨禍をもたらす戦争を支持する意味をもつとは思いも寄らなかったでしょう。戦中になっても、自らは純粋に理論を追究しており、体制のイデオロギーとは全く異なっている、という意識さえあったかも知れません。そのような知識人の無自覚さは、直ちに批判できません。知識人の考え方は、当時の思想のあり方、当時の知的枠組み、すなわち考え方の枠組みのなかで自然な流れだったからです。我々が今批判できるのは、そのような枠組みから脱しているからだと言えます。我々も、無自覚のうちに、現在の枠組みに捉えられているとも言えるでしょう。

 渦中にいる人間は、自分たちの考え方のもつ暴力性に、なかなか気づくことができません。暴力を振るう側も、振るわれる側さえも、その暴力性に無自覚になってしまいます。そのようなものであるがゆえ、一般に思い浮かべる暴力、目に見える暴力よりも、深いところで強力に作用するのです。このシンポジウムのテーマである、「知の暴力」とはそのようなものであると、私は考えます。