新しい文学に向けての断章 二 生成の現場・臨界の場にある言葉

 小説の文学史においては、身の置き所を与えられてない犀星だが、詩の文学史においては、近代詩、すなわち口語自由詩の最初の人として、重要な位置を占めている。このことは、彼の散文を問う際、もっと深刻に考えられてよい。

きょうもさみしくとんぼ釣り
ひげのある身がとんぼ釣り
このふるさとに
飛行機がとぶという
そのひるころのとんぼ釣り
とんぼ釣りつつものをおもえば
とんぼすういとのがれゆく



    (室生犀星「とんぼ釣り」)

 犀星の処女詩集は多大な影響力を与えた。犀星の詩によって、口語自由詩のスタイルというものが、了解されたと言う。犀星の詩の価値とは何だろう。口語。自然な言葉で、日常的な言葉で、詩が書ける。よく、そう述べられるが、犀星の詩がはらむ価値を言い尽くしてはいない。

 「とんぼ釣り」で、いちばん優れているのは「とんぼすういとのがれゆく」の箇所であるが、ここで何より鮮やかなのは「すうい」という擬態語である。実は犀星の散文においても、さかんに現われ目をひくのは、巧みな擬態語・擬音語表現と言える。そのほとんどが、ひらがなで書かれている。

 擬音語や擬態語、あるいはオノマトペ、といったものは、再考してみると、とても不思議なポジションにある。それは共同体のものである言語の中で、唯一、個々人の作家が生み出せる言葉と言ってよい。文学を書きたいと思う人は、つねに、言語表現にオリジナリティがあるのか、という問題に突き当たる。しかし、この擬態語といったものは、たしかに自分で生み出せる部分があり、その閉塞状況から抜け出している感がある。勿論、擬態語的な言葉が、個人のオリジナリティを完全に成就しているわけではない。完全にオリジナルな言葉は、もはや言語ではない。ひどく主観的な音(文字)の羅列になってしまう。オノマトペをただ主観的に駆使するだけでは、言語表現にならない。その言葉が共有され得るか、され得ないか、ぎりぎりのところにあるものが、最上の可能性をもつと言えよう。臨界の場にある言葉。

 犀星が擬態語を、ひらがなで書いていることに、彼の自覚を見て取ることができる。カタカナは異質性を際立たせ、どこか外的な音として響く。ひらがなは、既存の意味体系との連続性を志向している。しかし実際は犀星が生んだ言葉にほかならならず、完全につながりはしていない。犀星は、新しい言葉を参入させようとしていると言える。それが成功するか、しないか、その生成の勝負がつねにこころみられている。

 このような関心は、犀星だけではない。宮沢賢治草野心平などは、その部分をより押し進めたとも言える。優れた詩人は、共同体の言語との終わりのないたたかいに入っている。
 新しい文学を考えるとき、まず「日本語」の前に躓く。百年近く経とうとしているが、犀星の試みは古びているように思えない。

掠奪のために田にはいり
うるうるうるうると飛び
雲と雨とのひかりのなかを
すばやく花巻大三叉路の
百の碍子にもどる雀


    (宮沢賢治「グランド電柱」)