新しい文学に向けての断章 九 言語表現の批判力
既存の言語表現を批判するというのは、既存の言語をただくずしてみせることではない。くずすことによって批判を喚起した、と言うのは極めて浅薄な思考であり、書き手の怠慢でしかない。批判とは、全く別種の、強力な言語表現の体系の存在をひらいてみせることである。それは一人の書き手の内で、徹底的に一貫され、緊密に構成されてなければならない。既存の言語表現があってはじめて有効になるような表現は、すぐ絶える。文学に限らず、コンセプチュアルアートのようなものは、そこに陥りやすい。批判力を持つ表現とはつねに、(体系ならざる)体系をなしていなければならない。未見の体系の存在が迫る感覚が、芸術にとって重要なのである。
前衛詩の中で草野心平が傑出しているのはなぜか。
おれも眠ろう
るるり
りりり
るるり
りりり
るるり
りりり
るるり
るるり
りりり
るるり
るるり
るるり
りりり
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(草野心平 『第百階級』)
ながき夜の ねむりの後も、なほ夜なる 月おし照れり。河原菅原(カワラスガハラ)
(折口信夫 『海やまのあひだ』)
室生犀星の表現の異様さとは何か。
道綱の母のいだくところの折々の女らしい、夜半の松かぜのような嫉妬の美貌、あえぎながら自分を守る教養の怒りや奢りが、それが結局何の役にも立たないに拘らず、しかも文学の上にあらわれて来ると忽ちに黄衣をまとう、古き世の女の妖しさを浴び、たとえようのない色気をおびているのを私は眼に入れた。教養の中にある細烟にくらべられそうな肉感のねばり勁さ、その間遠い美しさ。
(室生犀星 『かげろうの日記遺文』 あとがき)