文学への覚書

 文学者にとって、言葉はつねに具象である。それは一度きりの、ある時のある場、そこにおける、ただひとつのある物を示すものである。しかし言葉はつねに、抽象性への堕落に脅かされる。言葉を記号と居直ることほど文学者にとって呪わしいことはない。ともすれば抽象のうちに流れ出てゆく言葉を、抜き差しならない力によって唯一のものにとどめおかねばらない。
 文学とは、ある思想を言うとき、つねに具象を要求するあり方である。ある思想は、例えば、ある土地の夏の夕暮れの水音を求める。熱を残した暗い水紋にうつる人の顔だちを求める。思想がつねに、そのような具象とともにあるのが文学である。

 抽象性から逃れるために、つねに具象の水準にあるために、文学者は「実感」を信ずる。蒙昧な実感を礼賛するのではない。抽象から逃れるためには抽象を知らねばならない。抽象に成る前の、なまの具象に立会い、そこから固有の抽象を目指すのである。

 実感とは固有の生活、固有の生である。文学者は、自然に考えれば全体的な人間の、個々人の固有性をあえて信ずる。そして固有性を突きつめた果てに、他者の生に至る瞬間があると信ずる。それはやはり不思議な瞬間であるが、非凡なことではない。自らの唯一つの実感によってつかんだ唯一つの具象、それが他者にとってまた唯一つの夕暮れの時間であるような実感、それを生じさせることが文学である。

薄明へ   イェイツ「葦間の風」より翻案

薄明へ


朽ち果てし時代の 朽ち果てし心よ 
正邪の網を断ち切りて来たれ
も一度笑え、心よ
ほの白き薄明のうちに
も一度嘆け、心よ
暁の雫のうちに



さがなき言葉の火に焼かれ
希望は崩れ、愛は潰えども
汝が母エールの地はかわらず若く
雫は光り薄明はほの白い



来たれ、心よ
山が山をなすところへ
日と月と谷と森の
秘めやかなる同胞のいるところへ
水と流れがその意志を遂げるところへ



神はかの寂しき角笛を吹いて佇み
時と世界は永劫に飛び立つ
ほの白き薄明は愛よりやさしく
暁の雫は希望より汝のそばに


              W.B.イェイツ




INTO THE TWILIGHT


OUT-WORN heart, in a time out-worn, 
Come clear of the nets of wrong and right;
Laugh, heart, again in the grey twilight,
Sigh, heart, again in the dew of the morn.


Your mother Eire is always young,
Dew ever shining and twilight grey;
Though hope fall from you and love decay,
Burning in fires of a slanderous tongue.


Come, heart, where hill is heaped upon hill:
For there the mystical brotherhood
Of sun and moon and hollow and wood
And river and stream work out their will;


And God stands winding His lonely horn,
And time and the world are ever in flight;
And love is less kind than the grey twilight,
And hope is less dear than the dew of the morn.



William Butler Yeats

女性的な知

 時に抑圧は、身体性を礼賛することから始まる。日本において女性性の可能性が問われる時、それが一度として身体性と無縁に説かれたことはない。男女の間に身体的な差異はあり、終局的にはその差異が大きな可能性を生む。しかし少なくとも日本においては、身体性よりも知性を、女性的な知というものを第一に考えねばならない。

 「かげろうの日記遺文」は「知」を持たぬ野生的な女(冴野)の可能性を問うたものとよく評価される。しかし犀星が同じ位、いやそれ以上に重きをおいているのは、「書く」女、女性的な知で男性の論理に挑む紫苑の上である。

 男性的な知の追従でも陰画ではなく、そして幻想された女の身体性からも一度完全に切り離された女性的な知、それを日本のフェミニズムは求めねばならない。

 しなやかにかわすことよりも、ほんとうに向き合うことを。盲目的に戦うことよりも、ゆるぎない論理をもて戦うことを。それはつねに男女両者にとっての幸福の問題である。

新しい文学に向けての断章 九 言語表現の批判力

 既存の言語表現を批判するというのは、既存の言語をただくずしてみせることではない。くずすことによって批判を喚起した、と言うのは極めて浅薄な思考であり、書き手の怠慢でしかない。批判とは、全く別種の、強力な言語表現の体系の存在をひらいてみせることである。それは一人の書き手の内で、徹底的に一貫され、緊密に構成されてなければならない。既存の言語表現があってはじめて有効になるような表現は、すぐ絶える。文学に限らず、コンセプチュアルアートのようなものは、そこに陥りやすい。批判力を持つ表現とはつねに、(体系ならざる)体系をなしていなければならない。未見の体系の存在が迫る感覚が、芸術にとって重要なのである。

 前衛詩の中で草野心平が傑出しているのはなぜか。

    おれも眠ろう



   るるり
   りりり
   るるり
   りりり
   るるり
   りりり
   るるり
   るるり
   りりり
   るるり
   るるり
   るるり
   りりり
   ――
             (草野心平 『第百階級』)

 折口信夫保田與重郎をわかつものは何か。

ながき夜の ねむりの後も、なほ夜なる 月おし照れり。河原菅原(カワラスガハラ)
             (折口信夫 『海やまのあひだ』)

 室生犀星の表現の異様さとは何か。

 道綱の母のいだくところの折々の女らしい、夜半の松かぜのような嫉妬の美貌、あえぎながら自分を守る教養の怒りや奢りが、それが結局何の役にも立たないに拘らず、しかも文学の上にあらわれて来ると忽ちに黄衣をまとう、古き世の女の妖しさを浴び、たとえようのない色気をおびているのを私は眼に入れた。教養の中にある細烟にくらべられそうな肉感のねばり勁さ、その間遠い美しさ。      
             (室生犀星 『かげろうの日記遺文』 あとがき)

新しい文学に向けての断章 八 女性的なもの

 女性的なもの、というのは、ひとつには、歴史的に屹立した男性的なものの余剰としてぼんやりと、しかしゆたかにあふれているものであって、必ずしも身体が女性の人にそなわっているわけではない。身体が女性であることに、微妙にかさなりあっている、という方が正確である。それゆえ、女性の身体をもちあわせている人は、気がつく契機を多く得ているとは言えるが、だからといって女性的なものに真にふれているとはかぎらない。ほとんどの女性は、女性とは何か知らない。価値ある「女」とは、女の未だ知らない女である。室生犀星がすぐれているのは、その意味での女性性を文学で体現しているからである。

 そうしてこれら見知らぬ、しかし意味ある「女」たちは、死者ではない。主観のうちに美的に定立されることを絶えず拒む、生きた存在である。それはある種の男性的な論理からは把握できないがゆえ、生きた霊のようなものとなる。フェミニズムは本来、その地点から問い直されるべきであろう。

  秋日


わたくしのあの向う
影のように無数の女が過ぎゆき
ほの青い匂いを残す
さらさらと流るる銀光
去来する淡く光る時間
つと来ては去り
つと来ては止む


 (やわらかな久遠。やわらかな久遠。)


明滅する女。螢。
すすきの穂が火となり
菫青の空をあかるくすれば
こくりこくりと
人知れず育つ結晶


 (やわらかな久遠。やわらかな久遠。)


暗室でぱたりと鳴る映写機に
桔梗の星がやどり
遠い日は女たちのうたに
はためいたほのかな光芒は
宵の底であたたかな雪となり
かすかに生まれ
かすかに消える


 (やわらかな……)


わたくしたちのすがたは
さらさら鳴るあの秋草の深奥、
かげろうの群落



                                (2006年10月)