ナショナリズムとジョイス

 国家は父性的なものであるが、ナショナルなものとは母性的なものである。それは最後の局面で、対決を許さない。ある種の懐かしさと愛情を湛え、人々をとらえる。精神の底で、否定しがたい何かとして働くのである。それゆえ、その超克は非常に困難になる。
 ジェイムズ・ジョイスの「エヴリン」(「ダブリン市民」)はこの側面を的確に描いている。早世した母親の代わりに、抑圧的な父親の世話をしてきた若い女、エヴリンは、ボヘミアンな船員と恋に落ち、新天地への移住を誘われる。しかし、彼女は、最後の最後で踏み切ることが出来ない。「エヴリン」は一見、心弱き女の素朴な逡巡を書いた小品のようだが、その底には深くナショナルなものの深淵が広がっている。エヴリンの旅立ちを妨げるのは、死んだ母親との約束である。不幸にしかなり得ない将来が見えながら、彼女は家に(国に)拘束される。父親には反発し、抵抗することができるのだが、影のように叙述しかされていない哀れな母親の像に彼女は縛られる。「イタリア」――「外国」の歌が聞こえたとき、狂気の言葉を発する、エヴリンの母親とは、まさしく、ナショナルなものの暗喩なのである。ナショナリズムに、批判的な感情を持てるうちは、まだそれは本当のナショナリズムではない。哀れで、懐かしく、思い入れもあり、そして狂気がひらめいても捨てられないもの、それがナショナルなものである。