新しい文学に向けての断章五 激情

 今日、ほぼすべての激情は、甘い感傷に落ちていく。激しさは抑圧された悲しい顔立ちを背後に宿し、むしろその涙ぐむ顔を見よと叫ぶ。そこにいるのは激しさとおよそかけはなれた小人物である。悲しい小人物であるがゆえに、激情を許せと乞う。そのような激情は価値をなさない。なぜ影に、安穏とした人の像を見ねばならないのか。いや、影でさえない。あからさまに、小人物の感傷的な自己肯定がちらつく。私を認めよ、私を許せ、私は私を愛したい、私はあなたらに愛されたい、そこには特に新しいことはない。激情の舞台が如何にすりかえられたところで、文学として見るべき新しい価値はない。

 萩原朔太郎の激情は、感傷を徹底して殺ぎ落とした激情なのである。

  虚無の鴉

 
 我れはもと虚無の鴉
 かの高き冬至の屋根に口を開けて
 風見の如くに咆號せむ。
 季節に認識ありやなしや
 我れの持たざるものは一切なり。


 朔太郎の真価は『氷島』にある。彼が日本浪曼派と近接性を示していたところで、保田與重郎らとは決定的な差異がある。感傷をもって語られる喪失感などは、喪失ではない。