金沢

 室生犀星について書こうとした時、金沢へ行く機会を得た。犀星の故郷である。金沢は、犀星のみならず、泉鏡花徳田秋声中野重治ら、多くの文学者を生んだ地であって、かねてから行きたいと願っていた。

 好きな作家の文学世界に思いを馳せながら、その生地を訪れるのは、どうしても甘い感傷を伴う旅となる。そこに住む人たちのなまの生活を見落として、旅の日は過ぎてゆく。文学者ならば、厳しく律するところであろう。けれど、旅とはつねにそのようなものかも知れない。旅には何かしら感傷がつきまとう。だからこそ、こうしてもう一度、言葉でかえりみることは、感傷的な思いを静め、少し深い思索をひらく契機ととなる。

 私は何を見たのか。私が見た街とは何であったか。……その姿は、私が見たに過ぎない。けれど、綴られた私の無数の感覚のなかで、稀に、ひとつかふたつ、同じ思い、と感じる人がいるかも知れない。その人は、ただいわゆる「他人」とはかぎらず、十年後の自分であるかも知れない。あるいは、その地を訪れたことのない、十年前の自分であるかも知れない。そのあたりにおそらく、旅先の地をとらえる秘密があるのだろう。旅と言ったが、文学というものに、どこか通じている。



 金沢の宿に着いた時、夜の七時をまわっていた。浅野川べりの、古い茶屋街にたたずむ歴史ある宿で、格子戸の木のにおいが香った。からころと鳴る引き戸の音が、快い。深い藍色の夜は石畳の上までおりている。北陸の夏の夜はやはり、ひんやりしている。

 茶屋街と言っても、ひどく静かだった。人の気配は、あかい光をわずかにこぼす、格子戸のむこうにたゆたい、細い道は、ゆきかう人も少ない。そうして、虫のすだく音が、いちめん、夜の大気からわいている。るるるる……とやわらかで、凛とした玉をふるわすような虫の音が、川面から石畳、橋の上をわたり、時折、りぃ、……りぃ、……と、鈴虫の、鋭い響きある声が、頭のあたりまでつたう。虫の音のふるえが、闇に美しい。犀星は、「虫寺抄」で、鳴く野の虫の生をひそやかに描いた。それは金沢の物語ではなかった。けれど、やはりその小説が思われた。虫の声がよく響く街というのがあるかも知れない。

 茶屋街は、しんとしているが、華やかさはちゃんとある。かすかに香のにおいが流れ、人の動きが、川面にうつるひかりのゆれを、わずかに変える。出入りする人がいなくなっても、明るく、鍵のあいている格子戸の玄関。そんな人の気配が、華やかさを生んでいる。

 深夜、りぃ、……りぃ、……と、鳴く声が一匹、ひどく耳に近かった。布団から抜け出し、明かりをつけず、枕の上の障子をつい、とあけた。ぬれたように光る路地の石畳に、虫の姿はない。もう一度、耳をすますと、虫の音は、枕と反対の、足もとの方から聞こえてくるようだった。部屋の戸口の、向こうらしかった。
 十二時をまわっていたが、浴衣のままそっと廊下に出た。すべらかな木の床がひやりと冷たい。青々と、よく作りこまれた坪庭の横を抜け、あかりのついた玄関に出ると、鈴虫の声が、三和土からりぃ、と響いた。玄関の内に、一匹、鈴虫が入ってきたらしかった。帳場に人はなく、他の泊り客も寝静まっている。けれど、いく人かが、この虫の音を聞いているだろうと思った。

 玄関は明るかったが、どこにいるのか、虫の姿は見えなかった。ただ、声だけがよく響いた。鳴く虫の存在というものを、不思議に思った。人は、鳴く虫のすがたを、途中まで、さがし、そしてあきらめる。すがたを求め、求めない。人にとっては、声こそが虫なのだろうか。



 朝、浅野川は、静かに、ちゃぷちゃぷと流れていた。川幅は広くないが、水はゆたかで、緑色に深かった。とろんとやわらかな川面に、こまやかな波が無数にたつのが美しかった。この川沿いは、鏡花の生まれ育った街だという。ちゃぷちゃぷと、変わらぬゆたかな流れ、鏡花の小説の流れを思う。

 この街には有名な庭が多いと聞いて、いくつか足をすすめた。水の流れがゆたかな庭が多かった。中心をなす兼六園が、用水を引き込んで庭を作ったからだろうか。まだ暑さの残る、八月の大気に、水の音が心地よい。よく繁った庭木が、沢山植えられている庭が多い気がした。枝々はよく伸びているのに、少しも煩い感じがしないのが、心に残った。犀星も庭づくりの名手で、庭についての文章を多く綴っている。庭とは、自然と人為との絶え間ないたたかいなのだと言う。庭の草木は、水は、人のいうことを聞くものではない。それを御してみたい、庭に向かうゆめとはそのようなものだと言う。木々は伸びて枯れ、苔は繁り乾き、水は澄み、濁る。庭に完成の時はなく、幾ばくかの人為の跡をとどめるだけである。枯山水は、人のゆめか、ゆめの終わりか、庭の素養のない自分は少しだけ考える。

 夕暮れ時、街を流れるもう一つの川、犀川にゆきあたる。犀星の生家の、小さな寺院からその流れを見る。空にひらけた、大きな流れであった。やはり水は深く、滔々と勢いよく流れているが、水面はやわらかく波うっていた。