新しい文学に向けての断章 七  かの「私」/私の知らない私

 「私」のうちには、「私」の決して知り得ない「私」がいる。それはただいることがわかるだけであって、何ものであるかわからない。かの「私」は決して同定できず、永遠に同一性として立ち上げることはできない。そしてまた、かの「私」は共同的なものではない。最も共同体の時間と距離を隔てたところに生きている。「私」自身にも、共同体にも、絶対的に知り得ないところにいる「私」、それこそが本当の意味での個人であり、本当の「私」である。文学はそのような「私」の存在の呼吸を、ぎりぎりのところで聞かねばならない。
 かの「私」はかの「私」だけの時間をもち、「私」があらゆる歴史と無意識に挑んでも、あきらかになることはなく、ただひとり静かに生きつづける。

幻想文学について

 真の意味での幻想文学とは、書き手が幻想的なものを書こうという意識がなかった時に生まれる。最初からある種の幻想的な主題の下に書かれたものは、好事家の仕事であって、むしろ除けられるべきものである。徹底して事象を追求した果てに、出現する奇怪な世界こそが本当の幻想文学なのであって、その意味では、文学の王道と何ら差がない。
 書き手と女がゆめのように交感する、室生犀星の「はるあわれ」にうつる揺るぎないリアリティは、正しく、美しい。目の前の女が、突如として、過去の忘れがたき女性そのものになる泉鏡花の幻想性は、他のリアリズムを圧倒する確かさを備える。中野重治は犀星に敬意を払い、志賀直哉は鏡花を好んだ。このことはより深く考えられて良い。現実世界を追求した果てにある、妖しい陥穽こそが文学であり、芸術なのである。

ナショナリズムとジョイス

 国家は父性的なものであるが、ナショナルなものとは母性的なものである。それは最後の局面で、対決を許さない。ある種の懐かしさと愛情を湛え、人々をとらえる。精神の底で、否定しがたい何かとして働くのである。それゆえ、その超克は非常に困難になる。
 ジェイムズ・ジョイスの「エヴリン」(「ダブリン市民」)はこの側面を的確に描いている。早世した母親の代わりに、抑圧的な父親の世話をしてきた若い女、エヴリンは、ボヘミアンな船員と恋に落ち、新天地への移住を誘われる。しかし、彼女は、最後の最後で踏み切ることが出来ない。「エヴリン」は一見、心弱き女の素朴な逡巡を書いた小品のようだが、その底には深くナショナルなものの深淵が広がっている。エヴリンの旅立ちを妨げるのは、死んだ母親との約束である。不幸にしかなり得ない将来が見えながら、彼女は家に(国に)拘束される。父親には反発し、抵抗することができるのだが、影のように叙述しかされていない哀れな母親の像に彼女は縛られる。「イタリア」――「外国」の歌が聞こえたとき、狂気の言葉を発する、エヴリンの母親とは、まさしく、ナショナルなものの暗喩なのである。ナショナリズムに、批判的な感情を持てるうちは、まだそれは本当のナショナリズムではない。哀れで、懐かしく、思い入れもあり、そして狂気がひらめいても捨てられないもの、それがナショナルなものである。

北原白秋

 詩がうたとして、音が音を呼び、憂愁の意味はなく、しかしある種の美的な確かさをもって続いてゆく。表現が表現だけの願いで、続く言葉を選ぶ。歌われるのは息苦しくふさがった内面ではない。ただ歌が歌われる。身体の動きに似ている。哀歓は音のうちにあかるい。詩が声に歌われるかも知れなかった時代の、鮮やかな洗練をそこに見る。



沈丁花


からりはたはた織る機(はた)
佛蘭西機ふらんすばた)か、高機(たかはた)か、
ふつととだえたその窓に
守宮(やもり)吸ひつき、日は赤し、
明り障子の沈丁花


             北原白秋 『思い出 叙情小曲集』

島崎藤村

 島崎藤村の酷薄な筆致がなければ、日本の私小説が特殊な力を得ることは無かった。それは藤村の冷厳に過ぎるまなざしであって、私小説の理論にはない。

 「夜明け前」の終章、発狂して座敷牢で死ぬ父を描く彼の筆致に叙情の痕は微塵も無く、父への追憶など生やさしい言葉を発させない酷薄さでつらぬかれている。そこに妖しいまでに凄然とした藤村の顔立ちを見る。その顔立ちは、藤村の私小説性とは全く無縁なのだ。

新しい文学に向けての断章 六 文字の存在

 物がそこにあるということから生まれる迫力というのがあって、不意に振り返ると、空間の片隅の暗がりに、かの物が、厳然と動かしがたく、ひとつの形を占めている。目を持たぬ物の呼吸は、また次第に、隔てられているはずの私のからだにも侵食してくる。暗い物の顔に無数の見知らぬ目がひらくのを、やがて知る。アウラとも呼びならわされた、物の存在の力。
 文学の存在の力は、作家の自書の内にはない。文学は初めから活字という複製物のなかに生きている。真の物か紛いの物か、問うことはできない。しかし文字はある。文字があるということに、物があるのと等しい存在の力を付与することが、文学のゆめである。複製物が複製物であることをやめ、ただ一つの、そこにある物として立ち現れてくる。抽象の中に生きるという安らかさはすでに無く、文字に触るのが厭われるような異様な瞬間。決してたやすくこちらから侵食し得ない、文字の存在の力。

新しい文学に向けての断章五 激情

 今日、ほぼすべての激情は、甘い感傷に落ちていく。激しさは抑圧された悲しい顔立ちを背後に宿し、むしろその涙ぐむ顔を見よと叫ぶ。そこにいるのは激しさとおよそかけはなれた小人物である。悲しい小人物であるがゆえに、激情を許せと乞う。そのような激情は価値をなさない。なぜ影に、安穏とした人の像を見ねばならないのか。いや、影でさえない。あからさまに、小人物の感傷的な自己肯定がちらつく。私を認めよ、私を許せ、私は私を愛したい、私はあなたらに愛されたい、そこには特に新しいことはない。激情の舞台が如何にすりかえられたところで、文学として見るべき新しい価値はない。

 萩原朔太郎の激情は、感傷を徹底して殺ぎ落とした激情なのである。

  虚無の鴉

 
 我れはもと虚無の鴉
 かの高き冬至の屋根に口を開けて
 風見の如くに咆號せむ。
 季節に認識ありやなしや
 我れの持たざるものは一切なり。


 朔太郎の真価は『氷島』にある。彼が日本浪曼派と近接性を示していたところで、保田與重郎らとは決定的な差異がある。感傷をもって語られる喪失感などは、喪失ではない。